秋高野球部時代の思い出     <S32年卒、男鹿谷和美>


 昭和28年、私が中学校3年生のとき、秋高野球部(本多主将)は、16年ぶり、戦後秋田県から初めての奥羽大会(青森県・岩手県・秋田県)代表として、夏の甲子園大会に出場しました。

 私は能代一中でしたから本来ならば能代高校に進学し、野球部に入るのが自然でしたが、秋高野球部の甲子園大会出場という衝撃的なニュースが、私のような田舎者でも『憧れの甲子園』というものに対し、身近なものを感ずると共に、いずれ私もという大きな夢と大きな希望を抱かせてくれました。

 秋高野球部に入部さえすれば、私も甲子園に行けるかもしれないという気持ちが子供心ながら日増しに強くなり、高校を決めるときには親にも学校にもろくに相談もせずに、秋高入学のために必要な学区内住所変更手続きや願書を勝手に出しに行った記憶があります。

 幸い私が秋高1年生のときの昭和29年(高橋<捷>主将)の夏は、前年に引き続き2年連続夏の甲子園大会出場という快挙を成し遂げることができ、私も選手の一員として、憧れの甲子園球場でプレーをすることができました。

 昭和30年、私が2年生のとき(清水主将)の夏は秋田県では優勝したものの奥羽大会では1回戦で敗退し、3年連続甲子園大会出場の夢が破れ、その悔しさに涙が止まらなかったことを覚えております。

 昭和31年、私(主将)が3年生のときは、語ることも嫌なほど弱いチームでしたが、一方、秋田県では連戦連勝、戦後最強のチームとまで言われた秋田商業や、青森県には春の甲子園大会で準決勝まで進出した八戸高校がおり、誰が考えても秋高野球部の夏の甲子園大会出場はあり得ないと思われておりました。

 それが結果的には、秋田商業と八戸高校を破り、秋高野球部が、正に奇跡に奇跡を起こし、逆転に逆転を繰り返して、ものの見事に奥羽大会代表としての夏の甲子園大会出場を勝ち取ることができました。

 それでは、なぜ、3年生が僅か4人、1・2年生中心のあの弱体チームが、夏のここ一番という大事な大会で、あの強敵をなぎ倒し、勝ち進むことができたのか?・・ということであります。
 今、私なりにあの時の勝因を分析してみましたが、このことが、今後、秋高野球部の選手や、指導者の方々にも参考にしてもらい、秋高野球部の勝利に役立ててもらえば幸いに思います。

 

1、先輩が築いた、『秋高野球部の輝かしい歴史と伝統』に支えられ、夏は、どんなことがあっても、必ず勝つのだという強い精神力を選手全員が持ち続けることができたこと。

 2、同時に、どんなことがあっても、負けられないのだという強い使命感と、限りない闘争心に燃え続け、優勝に向かって迷うことなく突き進めたこと。

 3、毎日の血の出るような厳しい練習の中から選手・監督の間に信頼関係が培われ、チーム一丸となって目標に邁進することができたこと。

 4、先輩がいつもグラウンドに顔を出してくれていて、技術的な指導や、激励をしてくれたことと、私達選手も先輩を尊敬し心からお教えを請うという謙虚な気持ちがあったこと。

 5、土手倶楽部という私設応援団がいて、毎日グラウンドの土手に10名前後の方が応援に来てくれており非常に励みになったことと、常に練習を見られているというプレッシャーから練習で手を抜くことができず、結果として終始全力でプレーをせざるを得なかったことがよかったこと。

 6、チーム力は弱体であったが、唯一優れていたのは、2年生ピッチャーの伊藤(俊)君と佐々木(信)君が、毎試合、相手チームの得点を最小限に抑えてくれたことと、かつ、前半で勝敗を決められずに好投してくれていたことが、後半勝利につながっていったこと。

 7、チームワークと頭脳的プレーが、他校に勝っていたこと。

以上が主な勝因であったと思いますが、勝負は絶対に負けないという強い精神力』が必要であり、秋高野球部の選手もそのような強い気持ちで、今後、大いに健闘してもらいたいと思います。



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